「雨ニモマケズ」の基本理念

牧野さんの写真 牧野立雄 盛岡市民福祉バンク事務局長

竹中 皆さん、おはようございます。それでは今日の最初のプログラムです。「雨ニモマケズ」の基本理念ということで、牧野立雄さんにご講演をいただきますが、それに先立ちまして、牧野さんのたいへん親しい友人であり、尊敬するとおっしゃっている実行委員長の村田さんから、講師のご紹介をお願いします。

村田 皆さん、おはようございます。昨日の夜から、テレビのニュースでこのフォーラムのことが、がんがん流されていたそうで、巷の噂になっております。本当にありがたいことだと思っております。
 さて、岩手県と言えば、すぐ浮かぶのが、石川啄木さん、そして宮沢賢治さん。今年の1月2日、関口宏さん司会のTBSの「サンデーモーニング」の特番が流されました。いろんな角度から日本人を切るという番組でした。最後に哲学者の梅原猛先生が出て来られて、エンディングをされました。「これからの日本人に必要なものはなんですか」という質問に、梅原先生は一言おっしゃいました。「宮沢賢治さんのような日本人」とおっしゃいました。
 さて、その宮沢賢治さん、いったいどんな人であったのでしょうか。ここに素晴らしい講師をご紹介することができます。お名前を、牧野立雄さんとおっしゃいます。
 牧野さんは愛知県のお生まれで、法政大学を卒業され、そして宮沢賢治の研究のために岩手にお住まいになりました。奥様は宮沢賢治の後輩にあたります。
 この牧野さん、机の上の論理を振りかざすのではなくて、障害者の中に入って、昨日、清原先生が高く評価された「財団法人盛岡市民福祉バンク」の事務局長として大活躍をされています。と同時に、フィリピンの障害のある子どもたちも含めた初等教育支援活動の、いわばディレクターの役割をされていらっしゃいます。
 宮沢賢治生誕100周年(1996年)の時には、テレビ番組、1時間番組を10本作られました。雑誌の編集者、テレビのディレクター、多彩な顔を持つ牧野さん。
 最近ご本が出版されました。『夢呼ぶ啄木、野を行く賢治』。生き生きと啄木と賢治さんが描き出されております。このご本は出口右側の書籍コーナーで販売をされています。
 そして小さな声でお知らせします。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩があります。それを宮沢賢治さんが書いた手帳があります。この手帳、貴重な復刻版なんです。牧野さんのお力で限定20冊、同じコーナーでお分けをしているそうです。もし駄目な場合には、後でなんとかすると牧野さんがおっしゃっていますので、交渉していただきたいと思います。
 ということで、お待たせいたしました。ぼくたちが尊敬する、そしてぼく個人も「現代の宮沢賢治」だと思っております、牧野立雄さんです。どうぞ。

村田さんとの出会いで宮沢賢治を語ることに

牧野 皆さん、おはようございます。今日こうして皆さんとお会いできることを、本当に心から楽しみにしておりました。
牧野さんの写真  村田さんとは11年来の付き合いになりますが、11年前、私は財団法人盛岡市民福祉バンクの会長をしております馬場勝彦から、「マニラのスラムの写真を撮って欲しい」と依頼されました。その頃は、福祉とかリサイクルということは全然頭の中になくて、カメラマン、雑誌の編集者、フリーライターと、そういう仕事をやっておりました。
 それで、マニラに行った時に、われわれが「援助する」と言っている向こうの子どもたちや、向こうの暮らしを見て、「うーん、ちょっと違うな」と思いました。「かわいそうなマニラの子どもたち」と思って行ったのですが、そうじゃなくて、とっても元気なんですね。笑顔も素晴らしい。
 「貧しい子供たちを援助するというけど、ちょっと違うじゃないかなぁ」と思いました。町にも活気がありました。フィリピン人の活力や子供たちの笑顔、遊ぶ姿。そういう写真を一杯撮って、非常に気楽に、ただ写真を撮って帰ってきて、それを180枚パネルにして、福祉バンクが主催した「フィリピン福祉見本市」(中三デパート)で発表しました。一九九一年のことです。湾岸戦争があり、フィリピンのピナツボ火山が爆発した年です。
 そのような活動の中で、フィリピンとの交流のボランティア委員長をしていた村田さんと出会い、その周りにいる素敵な人たちともお付き合いをさせていただくようになりました。
 そのあと私は、ダスキンという会社の広報誌のカメラマンとして全国の自然とその現場で活動している人々を取材する仕事や、96年の宮沢賢治生誕百年に向けて賢治ブームを盛り上げてゆくような仕事をしていました。宮沢賢治関連の雑誌づくりやテレビ番組の製作、そして生誕百年記念映画「春と修羅」の脚本も書きました。
 「よし、これでカンヌ映画祭へ行くぞ。賢治研究家というよりも、作家としてデビューするんだ」と意気込んでいました。結局、資金が集まらなくて、クランクインはしたのですけど1ヶ月撮影して挫折してしまいました。
 ちょうどその頃、福祉バンクは創立20周年記念事業で、付属農園いきいき牧場を社会福祉法人化し、精神障害者通所授産施設と知的障害者入所更生施設を建設していました。授産施設が95年に、入所施設が95年にオープンし、福祉バンクの事務局長も次長もそちらに異動しました。それで、本当は本体である福祉バンクのほうに大きな穴が空きました。その時に、「福祉バンクで働かないか」と声がかかり、それ以来、福祉バンクの活動をしています。
 活動をしていると言っても、この七年間、福祉をやって来たという気持ちは全然ありません。福祉バンクに入ってやって欲しいと言われた仕事は、フィリピン・マニラ市との国際協力事業です。なかでも盛岡マニラ交換学習プログラムは、マニラ市と盛岡市がかかわる事業ですから、なんとしてもやり遂げ、成果をあげなければなりません。
 交換学習プログラムというのは、「95年秋から一年間にわたって、マニラで障害児の教育をしているフィリピン人の先生が、一回3人二ヶ月、4回にわけて盛岡で研修する。一方、盛岡からは中高生と若い先生を派遣する」という国際協力事業です。それを具体的に推進するのが私の役割でした。
 これは、福祉バンクの基本である福祉やリサイクルと違う事業であり、現場のスタッフには荷が重い仕事です。そこで私が、事務局次長兼市民活動交流室長という肩書きをもらって、「マニラのことをやってほしい」と言われたのです。
 「変わったところだなぁ」と思いました。民間の福祉団体が国際交流をやる。しかも、私はマネジメント・スタッフになったつもりでしたが、そうではなくて、国際協力事業をやる。会長のリーダーシップが強力で理事会に反対されなかったからできたのだと思いますが、自分自身が理事になった今では、考えられないことです。でも、そのおかげで、そのころ盛岡・マニラ育英会の事務局長をしていた村田さんと非常に親しくなったわけです。
 で、この村田さんという人は、昨日から皆さんの前でいろいろお話しなさっているので、わかると思いますけど、ちょっと変わった方なんですね。松葉杖を付いた公務員だからじゃないですよ。発想の仕方が変わっているのです。
 村田さんは、「これからは変ジャパの時代だ」と言います。「変ジャパ」というのは、「変な日本人」。枠にはまらない、日本という社会の内部から見るとちょっと変わった日本人です。これからは、そういう日本人が、地域を元気にし、新しい日本を作るというのが村田さんの持論なんです。
 昨日、この舞台に出て来た方々にも、かなり変わった方々がいたんじゃないかなと思います。官僚を辞めちゃった人もいましたしね。いろいろな方が人がいましたね。
 村田さんと今回の講演内容について相談しているときに、「これからは変ジャパの時代だ」という話を聞いて、自分が長年あたためてきた宮沢賢治のほんとうの素顔についてようやく話をする時が来たなと思ったんです。

「20世紀変ジャパ大賞」を宮沢賢治に

 私は愛知県の名古屋市で小・中・高と育ちました。その時、宮沢賢治さんの作品は教科書でしか読まなかったですけど、「本当に変わった人だな」と思いました。私の理解を超えた人でした。たとえば、宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の詩がありますねぇ。これも、はっきり言って、私には全然理解できなかったです。
 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」。ここだけは理解できました。その後がもう全然理解できなかった。たとえば、後ろの方に「サムサノナツハオロオロアルキ」という言葉が出てきます。名古屋の夏は暑いんですよ。とにかく、メチャクチャ暑い。その暑さの中で育った私には「寒サノ夏」が、皮膚感覚としてわからないですね。
 わかったのは、盛岡に住んでからです。もう25年盛岡に住んでいますが、今年なんかそうでしたね。竹中さんがお出でになったので、昨日今日は盛岡も少し暖かくなりました。その前は、涼しかった。もう晴れた日がほとんどない。こっちに25年住んで、ようやくそういう夏があることがわかったのです。名古屋にいたときは、わかりませんでした。
 それから、「デクノボー」というのもわからなかった。何がデクノボーなのか、どういう人のことをいうのか。言葉の印象として、立派な人じゃないことは分かりました。どうしてそんな人になりたいのか。私に、その気持ちがわからなかったのです。
 「イーハトーブ」という言葉、今回も使われていますよね。これも、わかりませでした。私は今から10数年前、自分で撮った写真を使って「イーハトーブ歳時記」という絵はがきを製作して観光客が集まりそうなところで売ったのですが、県外から来る人はまずわからないですよ。岩手の人は何となくわかる。だけど、たとえば名古屋とか大阪から来た人からすると、「なんだ?」と。
 マニラで活動している鹿児島出身の友人などは、「イーハトーブよりもムトウハップ(入浴剤)のお風呂に入ったほうがいい。何ですかそれ」と冷やかします。また、名古屋の友人は、「なんで盛岡みたいに寒いところへ行ったんだ。テレビの天気予報を見ていると、めちゃめちゃ寒いがや」と言います。
 名古屋から見ると、この岩手というところは、田舎の田舎に見えました。住民票も本籍もこちらに移している今から思うと、本当に申し訳ないのですが、そう見えたんです。 特に、賢治さんが生きていた時代は、第一次世界大戦が終わって、日本の領土が北はカラフトから南はミクロネシア、赤道直下まで広がった時期です。
 そして「日本は世界の一等国」であり、東京は「東洋の都」だと言われました。そうなったとき、この岩手というところは、「近代化が遅れた貧しいところ」というイメージだったんですね。
 よくよく見れば、岩手には平泉の文化もありましたし、最近アニメになった「アテルイ」という英雄もいました。ところが、明治以降、どうも地盤沈下している。明治維新の時点で、盛岡は南部20万石の城下町で、全国で20番目くらいの都市でした。ところが、近代化の波によって、だんだんと全国の都市で産業が発達するにつれて、田舎の代表のように見られるようになってしまった。
 そして、岩手が「田舎の田舎だ」と言われるようになった時に、賢治さんは、それを「イーハトーブ」と命名したんです。「イーハトーブは、ドリームランドとしての日本岩手県である」と。「そこではあらゆることが可能である」と言ったわけです。
 名古屋とか東京とか関西にいる人からしたら、「何を言っとる?」と。名古屋弁では、「何、言っとりゃーす」と言うんですけどね。そういう変わったことを言う人だったんです。
 ところが、今から8年ぐらい前、全国最年少の知事が岩手に誕生した時に、「夢県土岩手」と言ったんです。私は、これはたぶん、イーハトーブを日本語に直したんだと思います。こういう知事が誕生するまで、そんなことをまともに信じている人は、おそらく岩手県のお役人の中にも、あまりいなかったと思います。
 今日の午後、全国から今活躍しておられる知事さんがお出でになりますが、こういう方々が出てくるまで、地方とか「田舎」って呼ばれるところが、そんな夢のあるところと思わなかったですね、都会に住んでいる人たちは。
 まず第一に、そういう意味で、賢治さんは私から見て非常に変わった人でした。
 それからもう一つ。日本が世界の一等国になった時は、世界中で「うちの国が一番強い」とか「うちの国は一番領土が大きい」とか、強さや大きさ、あるいは速さを競っていたんですね。「うちが一等賞だ」と。
 そういう時に、賢治さんはイーハトーブ童話の最初に出てくる『どんぐりと山猫』という作品の中のめんどうな裁判で、こういう判決を下したんです。
 「よろしい。静かにしろ。この中で一番偉くなくて、馬鹿で、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、頭の潰れたような奴が一番偉いのだ」と。
 これも、真面目に勉強していた私からすれば、「何を言っとるんだ、この人は」と、「とんでもないことを言っているな」と、そう思いました。これから一生懸命に勉強して、より強く、より速くなって、「頑張れニッポン」という感じで頑張ろうと思っていたのに、何でこの人はこんな馬鹿なことを言うんだろうと、そう思っていたんです。
 じつはこれ、コロンブスの卵と同じなんですよ。独創的なアイディア、斬新な発想、価値の転換です。賢治さんが、イーハトーブ童話集『注文の多い料理店』を自費で出版して、その宣伝パンフレットに「イーハトーブ宣言」を書いたのは、1924年です。この前の年に何があったかというと、関東大震災です。観客の写真世界の一等国になった日本の首都が関東大震災で壊滅的打撃を受けた。その翌年に、賢治さんは、「ドリームランドとしての日本岩手県」ということを言ったわけですね。
 今だったら、恐らく三重県も、和歌山県も、岐阜県も、宮城県も、全部そう思ってやっているのではないでしょうかね。要するに「自分たちの地域こそがドリームランドだ」と。 
 ですから、私は、ぜひ村田さんにタイムカプセルに乗って1924年まで行って欲しい。その頃、花巻農学校というところで先生をやっていた、宮沢賢治という見た目にはごく普通の28歳の青年に、「20世紀変ジャパ大賞」を贈呈して欲しい。そう思っているんです。

時代も土地柄も違う中で「雨ニモマケズ」を読んで

 ところで、昨日、8月27日は、賢治さんの106歳の誕生日でした。106歳、まだ生きてる人は世界にいるんですね。だから、賢治さんが生きていてもおかしくない。おかしくないんだけれど、賢治さんは非常に遠くに感じさせます。その誕生日という時に、この大会が開かれたんですね。
 私は、宮沢賢治さんの作品は「心のユニバーサルデザインではないかなぁ」と思います。私にとっては人生の羅針盤ですけど、おそらく日本人にとっては「心のユニバーサルデザイン」ではないかなと思います。
 そういう意味で、こうして皆さんの前で、賢治さんのもう一つの顔、なかなか教科書とか学校で教わらない部分についてお話できること、たいへん嬉しく思っています。
 ということで、今日のテーマ「雨ニモマケズ」に入っていきたいと思います。昨日、パンフレットと一緒に、「雨ニモマケズ」の詩やいくつかの言葉をコピーして入れていますので、後でご確認頂ければと思います。
 先ほど村田さんも紹介しましたけれども、この手帳、これが「雨ニモマケズ」手帳です。この中の11月3日の欄に「雨ニモマケズ」の詩が書いてあります。昭和6年、西暦で言うと1931年11月3日です。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテイカラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱葺ノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 こういうふうに書いてある。さきほども言いましたけど、これを高校時代の現代国語の教科書で習った時には、私は全然わかりませんでした。というのは、私が高校生の頃というのは、東京オリンピックがあった頃です。昨日、家に帰ってテレビ見たら、『プロジェクトX』という番組で、東京オリンピックの時に選手村で裏方として活躍したコックさんたちの奮闘ぶりを描いていました。たいへん感動的な番組でした。
 あの時の日本のテーマは何かと言いますと、より速く、より高く、より強く、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ日本、なんです。東海道新幹線ができ、東名高速道路が開通し、この私も「よし、俺たちも頑張らなければいけない。日本の将来を担うのは俺たちなんだ」と思って、一生懸命受験勉強していました。
 そういう時に、この「雨ニモマケズ」の詩を読んでも、残念ですけど「ぼくにはそういう生き方はできないなぁ」と思いました。「小サナ萱葺キノ小屋ニイテ」と言われても、やっぱりお金を稼いで立派な家を建てないと女房に逃げられます。愛があれば、お金なんかなくてもといいうわけにはいかない。子供だって育てられない。「たぶん彼女も逃げちゃうんじゃないかなぁ」と、そう思いましたね。
 それから、「味噌ト少シノ野菜」では、残念だけど戦えないですよ。今は50歳を超えましたから、「味噌ト少シノ野菜」という感じで、コレステロールをできるだけ取らないようにしていますけど、高校時代はそうではないですよね。「それではアカン」と。とにかく、「より強く、より速く」ですから、できるだけエネルギーのあるものを食べて頑張ろうと、そういう時代だったんです。
 そういう時代感覚からしても、この「雨ニモマケズ」の詩は、全然、私には理解できませんでした。そこで私はこういうふうに書き換えました。

雨にも負けず
風にも負けず
大きな欲を持ち
しっかりと自分を勘定に入れて
みんなに良くやったと褒められ
いつも大事にされる
そういうものに私はなりたい

牧野さんの写真 こう言うと、もうクラスの全員が、「そうだ、そうだ」と。「理屈と膏薬はどこにでもくっつく。先立つものがなければ何もできんぞ」と。そういう感じだったですね。先立つもの、つまりお金であり、生活の安定です。理屈なんかあとでどうにもなる。まず現実。想いじゃなくて、実です。
 名古屋の人間は、本当に実を取るのです。名を取るのではないのです。大河ドラマで話題の前田利家という人を見てください。名を取ったら、秀吉に殺されて、加賀百万石はできなかったでしょう。秀吉はかつての同僚です。しかも自分よりも家柄の悪い。しかし天下をとったのは秀吉です。立場が変われば仕方がない。名を取るよりも実。とにかく頭を下げるしかない。利家は、そうして生き残った。
 それと、常に子どもの頃から言われたのは、「東京、大阪、名古屋」という言い方です。「名古屋は日本の三男坊」と言われるんですね。良いことはお兄ちゃん。三男坊はどうやって生きて行くのか。「しょうがない。どこかで金稼いで来い」と。だから、結局いろいろあっても我慢して、実を取る。
 で、この前テレビの大河ドラマを見ていたら、利家のあの奥さんもはっきり言っていました。利家が戦場に出かけるときに「ここで命を捨てるとか、名は末代までなどと言ってくださるな。必ず生きてお帰えりください」と。
 これが、名古屋の三男坊の価値観なんですね。そういう中で育って来たので、宮沢賢治さんみたいに理想を追いかけるということは立派なことではない。実業の世界で一旗あげた人間のほうが尊敬されるんです。

ちょっと変わった高校生、とてつもなく変わった人と出会う

 私自身が、実は高校生としてはちょっと変わっていました。自慢ではないですけど、貧乏でした。その上、小学校のときに親が離婚。「もう、どうすりゃいいの」ということで、私は高校に行く前に2年間働いたんです。
 その時に一番良かったのは、高校受験の精神的な圧力からのがれることができたことです。中学校3年生の夏休みに働こうという決断をしたものですから、みんなが一生懸命受験勉強している時に、好きな本を読んでいました。愛読書は吉川英治の『宮本武蔵』。「人生真剣勝負」というその言葉だけ覚えているんですけどね。
 で、私がその2年間何をやっていたかというと、東芝という会社の技能訓練生になりました。技能訓練生という制度は、今はもうなくなりましたけど、給料をもらって勉強をするんです。扇風機や洗濯機を作る工場の「金の卵」として大事にされ、いっぱい勉強させてもらいました。この2年間の勉強が、私の人生にとって、最も素晴らしい教育だったなぁと、今思っています。
 東芝の名古屋工場というところでしたけど、教える人は全部、そこの先輩たちです。現場で鍛え上げた人たちが教えてくれる。それと、英語や数学はホワイトカラー、東京の大学を出て入社したというエリートたちが教えてくれる。
 そのころの私の夢は、「世界一の旋盤工になる」ということでした。それで、技能オリンピックに挑戦しました。東京オリンピックには出られない。まあ、その能力もない。だけど、技能オリンピックなら出られるぞと。
 現実に、東芝の技能訓練生の中から技能オリンピックに出て金メダルを取った人いたんです。もう身近な目標なわけですよ。「よし、俺は高校には行けなかったけど、ここで一花咲かせよう」と思いました。でも、1年経った時に「君には旋盤工は無理だ。適正がない」と言われました。1年間、本当にいろいろ頑張ったんですよ。でも、「100分の1ミリという細かい仕事は、君にはできない」と。そして配属されたのが、プレス課。洗濯機の桶は、今は全部プラスチックですけど、その頃は鉄板で作っていました。大きな機械でギューと圧縮して形を作るんです。そこに配属されたんです。
 その時に、「そうか、世界一の旋盤工になることは、俺には無理なんだ」と、夢が一つ潰れました。「さあどうしよう」という時に、早稲田大学を出たエリートの、まだ28歳ぐらいの人が、「君はこの道には向かない。違う道に行った方がいいぞ」と教えてくれました。
 「よし、人生を再スタートしよう」ということで、17歳になった時に高校に行ったんです。最近は中学浪人という人もいますけど、40年前はそういう人は少なかったです。しかも、私は2年間働いてから行ったものですから、名古屋市立向陽高校に入学したんですが、まったく別世界に入ったように感じました。
 私が行った高校は、戦前は女子高校だったそうで、当時は、ぬるま湯で有名でした。学校に行ったら、「向陽温泉1ヶ月1,490円」と書いてある。「何のことかな」と思ったら、月謝の金額だったんです。「月謝を払えばぬるま湯に入っていられますよ」と、そういう意味だったんですね。そして先輩たちは、制服制帽廃止運動をやっていました。どうでもいいことにエネルギーを使っているなあと思いました。
 それから、学園祭の弁論大会で先輩が、「フルトベングラーとカラヤンのベートーベンの演奏はどっちが良いか」論じていました。私、ベートーベンなんて、あの『運命』の「ダダダダーン」ていうところだけしか知らない。フルトベングラーという人が世の中にいるということすら、わからない、カラヤンもそうです。
 「俺はとんでもない場違いなところに入ったぞ」と思いましたね。運動会なんかも凄かったです。『平凡パンチ』という週刊誌が話題を集めていたころで、運動会のときに3年生の凄い美人の先輩が水着で歩いた。プラカードには『向陽パンチ』と書いてあった。こっちは坊主頭で人生再スタートと思って入ったのに、凄いところに入っちゃったなぁと思いました。
 そうやって本来自分がいるようなところではない場所に自分がいるのではないかと思い悩んでいるときに、「雨ニモマケズ」に出会ったんですよ。先生がいろいろ教えてくれました。
 宮沢賢治という人は、羅須地人協会というものを作って、農家の子どもたちにいろんなことを教えた。ベートーベンの音楽も、レコードで聞かせた。それだけではなくて、バイオリンとかチェロを揃えて、楽団まで作った。
 「ダダダダーン」しか知らない高校生からすると、「萱葺の小屋にいる人が、何でベートーベンを聞いているんだ」と。おまけに、バイオリンやチェロでしょう。その話を聞いて、私の頭の中は、ますますバラバラになってしまいました。
 「宮沢賢治という人は私には理解できない。自分は、ちょっと変わった高校生だけど、この人は、とてつもなく変わった人だ。こういう人には近づくかないほうがいい」。こう思ってしまいました。
 村田さんのテーマは「心のバリアフリー」ですけど、私はその時バリアを張ったんです。「賢治には近づくな」と。「賢治に近づいたら、ダメになる」と。

宮沢賢治は、いかに変わっていたか観客の写真

 その後、東京の大学に行っていろいろなことをやったんですけど、22〜23歳の時に、また宮沢賢治に出会いました。
 私の世代は「団塊の世代」と言われまして、竹中さんもそうではないかと思うんですけど、1970年前後、学生運動とか、いろいろなことがあったんですよ。でも、そのいろいろなことをしゃべり始めたら1時間では足りなくなります。だいたい50歳過ぎたおじさんにそのあたりの話をさせると、とんでもないことになりますので、そこは全部カットします。
 で、そんな時代に宮沢賢治の作品にもう一回会った時、今度は「この人には、信じてついて行けるじゃないかなぁ」と思ったんです。やっていることは、理解できないですよ。でも、信じられる気がした。
 なぜ信じられるのか。自分なりに調べてみると、賢治さんという人は、「農民のために」とか「貧しい子どもたちのために」とか、そういうことは一度も言ったことがないです。
 賢治さんの伝記を読むと、「宮沢賢治という人は、貧しい農民たちのために自分を犠牲にして献身的に働いた」という記述によく出会います。でも、賢治さん自身は「農民たちのために」なんて一言も言っていない。「俺たちはみな農民である」と言っている。全然違うんですよ、これは。そしてもっと変わっているのは、そう言って本当に学校の先生を辞めて、農民になっちゃった。そんな人は、あの時代にはいなかった。
 それで賢治研究を始めて、法政大学の通信教育部日本文学科に入りました。昨日この会場で行われたパネルディスカッションの言葉で言えば「eラーニング」ということになるんですかね。とにかく、通信教育で勉強して、教育実習その他をやって、やっと国語の教員免許状を取りました。
 私がそうやって苦労しているのに、賢治さんは、学校の先生辞めて農民になった。「私はどうすりゃいいの」という感じです。
 宮沢賢治という人は、そういうふうに自分の生き方まで変えている。これは、なかなかできることではありません。昨日、キャリア官僚を辞めて独立して事業をやっているという方がおられましたけど、宮沢賢治という人は、75年以上も前にそういうことを実行しちゃったんですよ。ちょうど大正から昭和に変わる年、西暦で言うと1925年、賢治さんが29歳の時です。
 賢治さんのお父さんは実業家です。その頃、町会議員もやっていました。賢治さんのお母さんの実家は、もっと大きな資産家です。岩手県のレベルで考えてはいけないというぐらいの資産家です。そういうお父さんお母さんから見ると、これはもう、考えられないことですよ。
 宮沢賢治という人は25歳の時に農学校の先生になりましたけど、ものすごい高給取りでした。地元では、超エリートでした。今で言えば大学院まで出ているんですから、学歴はある。その上、家は資産家。お父さんは町会議員。親戚の伯父さんは町長、今でいえば市長。そういう境遇にいる人が、先生を辞めてしまうんですから、それはみんなから変わり者だと言われます。
 しかも、そういう人たちが「変わっている」と言っただけではないですね。賢治さんが「羅須地人協会」と呼んだ建物、そこの周りにいる農民たちも、「宮右かまど(賢治の生家の俗称)の若旦那はずいぶん変わった人だ」と、そういうふうに思っていた。で、自分の子どもたちが賢治さんのところに行ってレコードを聞くのも、バイオリンを弾くのも、「そんなことは農民のために良くない。必要ない」と言っていたんですね。
 私は実際に取材したことがあるんですけど、今はもうおじいちゃん、おばあちゃんになっている教え子たちは、家で親に見つからないように布団を被ってレコードを聞いたと言っていました。賢治さんからもらった蓄音器を聞いたと言っていましたね。
 で、賢治さんは農民の中に入ったんですけど、米作りはやらない。米作りの指導はしましたけど、力を入れたのは、トマトやキャベツ、そういう西洋の野菜の栽培ですね。それと園芸植物。アルストロメリヤとかスターチスとか、今花屋さんに行ったら売っている人気の花です。こういう物を、ヨーロッパやアメリカの会社から個人輸入をして、栽培していた。こういうことは、周りの農民から見ると理解できないわけですよ。たとえば、トマトは、その頃は見る物、花と同じで、食べる物ではありませんでした。それを賢治さんは作って食べるわけですからね。
 ところが、今、花巻に行って農業生産高をみると、一位は米ではありません。一位は、花と野菜なんです。昭和の初めに賢治さんが栽培したときは、みんなが驚きましたが、今ではそれが当たり前になってしまったんですね。
 また、音楽だけではなくて、科学も教えたわけですけど、その頃は本当にみんなが理解できないことを、しかもボランティアで、全部ただで、教えていたんです。
 だから、当時の世間の常識から見ると、まったく理解できない変わった人でしたが、今になって見ると、梅原猛さんが言うように、「21世紀の日本に必要なのは、宮沢賢治のような人」なんです。21世紀になって、ようやく賢治さんの価値をみんなが理解できるようになったんですね。

日本のNPOのルーツは羅須地人協会!?

牧野さんの写真皆さんは、昨日のパネル討論などのお話を聞いてるので、あるいは普段からいろいろなことを実践されているので、宮沢賢治さんがやったようなことが今必要だ、あるいはこれから必要だということは、いちいち説明しなくてもわかっておられるのではないかと思います。しかし、賢治さんが生きた時代には、「20世紀変ジャパ大賞」を与えなければいけないくらい変わった人だったんですね。
 賢治さんが羅須地人協会というところで教えた生徒さんは、10人いません。生徒になる条件は「働いている人なら誰でも」。その案内文の最初には、こう書いてあります。「われわれはどんな方法で、われわれに必要な科学を、われわれの物にすることができるか」。
 私は、「これは、このチャレンジド・ジャパン・フォーラムのテーマなんじゃないかな」と思いましたね。この文章をこの大会に当てはめると、こうなります。「チャレンジドはどんな方法で、チャレンジドに必要な科学を、チャレンジドのものにできるか」。
 賢治さんが言った「われわれ」とは、農民です。その頃、岩手ではほとんどが農民でした。今なら誰かと言えば、働く人、市民ですね。で、私はこれをさらに障害を持った人たちに当てはめて言いたいんです。
 私はこの7年間、福祉の世界を経験しました。今、福祉の世界では、基礎構造改革とか、いろいろなことが言われています。そういう状況の中で言えば、「どうしたら障害を持っている人が、単に福祉サービスの対象になるのではなくて、担い手になれるか」、「福祉が21世紀の産業だと言うのであれば、どうしたら障害を持った人自身がその産業の中心で働く人間になれるか」ということです。
 賢治さんが農民に、あるいは農家の10代の子どもたちに語りかけたことは、今で言えば、そういうことだったと思うんですね。
 私は、竹中さんのなさっている活動については、インターネットでしか見たことがありません。ただ、幸いインターネットの中にいろいろなことが書いてあるので、今日こうやって話をさせていただくことになって、全部読みました。
 「竹中さんがやっておられることは、賢治さんが羅須地人協会でやろうとしてたことと、まったく同じじゃないかな」という気がしましたね。私がこの大会で賢治さんのことをお話しできるのが嬉しいのは、まさにそれがあるからなんです。私は、プロップ・ステーションのルーツをたどると、羅須地人協会に行くのではないかと思います。
 実は、私は福祉バンクに入った時に、福祉バンクのルーツは羅須地人協会ではないかなと思いました。日本のNPOのルーツが、それではないかと思います。
 私は、「市民活動」という言葉は、あまり好きではありません。「市民事業」と言いたい。要するに,「稼がなきゃあかん」と。そういう意味で、私は福祉バンクに入った時から「われわれは市民事業をやるんだ」と思っています。
 しかし、現実にはなかなかそうもいかない。やっていることはリサイクルですから、汗まみれ埃まみれの仕事です。一緒に汗を流す人たちは、重度の知的障害の方であったり、精神障害の方であったりしますから、なかなか現実には「稼ぐ」とまでは行かない。
 ただ、活動資金はほとんど自前で稼げています。今年度予算1億6000万円のうちの1億3500万円までは自前で稼いでいるんです。これは、私は素晴らしいと思っています。「補助金に依存してない」と。小さな作業所からは「いっぱいもらっているじゃないか」と言われますけど、毎日60人の障害を持つ人たちとスタッフ20人の活動を、ほとんど自前でやってるんですね。これは本当に素晴らしいことだと思っています。現在われわれがやってる活動、あるいは、これからやって行こうとしている活動の原点に、宮沢賢治という人がいたと、そういう話です。
 それから、NPOの思想的なリーダーであるドラッカーという人がこう言っています。「非営利機関は人間変革機関である。その製品は、治癒した患者、学ぶ子ども、自尊心を持った成人となる若い男女、すなわち変革された人間の人生そのものである」と。
 私は、おそらくNPOの理念とか目的というものは、これだと思うのです。社会福祉法人、財団法人、あるいは学校、病院、これらは全部、広い意味のNPOですが、その理念とか目的は、これこれだと。
 今、たとえば、不登校の子どもたちのために頑張っている方々、この方々は結局、学ぶ子ども、自尊心を持った成人を育てたいわけですよね。病院の目的は何か。やっぱり治癒した患者ということですよね。
 羅須地人協会は2年半で挫折してしまったんですけど、私は、賢治さんがやろうとしたことも、そういうことだったのではないか考えております。そういうことは、今ここにお集まりの、日々そういう活動に直面されている皆さんは、わかっていただけるのではないかと思うわけです。

チャレンジドとしての宮沢賢治

 もう一つお話ししたいことがあります。
 「雨ニモマケズ」の詩がある手帳の最初のところに、こう書いてあります。「昭和6年9月20日、東京にて発熱」。この日、高熱を出して倒れたんです。そして、11月3日に「雨ニモマケズ」なんです。
 この間、宮沢賢治さんは急性肺炎のような症状でずっと寝ている。寝ているのは、この間だけじゃないんですね、羅須地人協会の活動は2年半で挫折しましたけど、病気で挫折している。32歳の時に病気で一回倒れて、亡くなったのは37歳と1ヶ月です。この間の5年間、ほとんど寝ていたんですね。闘病生活を送っていた。
 32歳から37歳までの間、闘病生活を送るということが、どんなに大変か。これは皆さん、わかっていただけると思うんですよ。みなさんは、その悔しさや悲しさを自分で経験したり、その経験を持つ人たちと一緒に活動している方々ですから。
 この5年間に、病床でさまざまな作品を書いたということを知った時、私は非常に感動しました。涙が出ました。自分だったら、とうていできないと思います。
 その5年間の闘病生活の中で生まれたのが、「雨ニモマケズ」手帳であり、それともう一つ私が愛読している「疾中」詩編とよばれるいくつかの詩です。むかしは「肺炎詩編」とも呼ばれましたが、どれも強く心に響く作品です。その中の一つに、「夜」という詩があります。一九二九年四月二十八日とメモがありますから、賢治さんが三十三歳のときです。

これで二時間
咽喉からの血はとまらない
おもてはもう人もあるかず
樹などしづかに息してめぐむ春の夜
こここそ春の道場で
菩薩は億の身をも棄て
諸仏はここに涅槃し住し給ふ故
こんやもうここで誰にも見られず
ひとり死んでもいいのだと
いくたびさうも考をきめ
自分で自分に教へながら
またなまぬるく
あたらしい血が湧くたび
なほほのじろくわたくしはおびえる

 賢治さんは、いつも森や野原で活動し、森や野原を恋人だと言った人です。そういう人が、病に倒れて、こういう生活を強いられたんですね。それでも賢治さんは、その病床を「春の道場」だと思い、そこには衆生を救うためにいのちを棄てた菩薩がおり、もろもろの仏が悟りを開いて住んで居られると考えたのです。要するに逆転の発想です。そして、この病床はそういうありがたい場所なのだから、今夜ここで一人で死んでも寂しくない。そうゆうふうに自分に言い聞かせるけれど、血がこみ上げてくるとやはり死が恐ろしい。「またなまぬるく/あたらしい血が湧くたび/なほほのじろくわたくしはおびえる」です。
 悟りきっていないのです。その一歩手前で、おびえている。震えながら、懸命に死とは何か、生きるとはどういうことかを考えている。ここが、賢治さんの最大の魅力の一つです。もし、この部分がなかったら、療養中のベッドを春の道場だといい、ここにはたくさんの菩薩や仏がいると言って、それで終わっていたら、それこそ聖者です。しかし、賢治さんは、その一歩手前で、ぎりぎりのところで詩や童話を書いた。だから、心に響くんです。宗教に懐疑的な人でも、賢治さんには、心を開くんです。
 それと、賢治さんという人は、もの凄い行動力のある人でした。南は大阪の四天王寺の駅まで行っています。北は樺太まで行っています。東京には9回行きました。そして、この四国と同じくらいの面積がある岩手県を、ほとんど徒歩で歩き回っています。岩手山には30回以上登ったのではないかと言われます。それぐらい健脚で動き回る人なんですよ。
 そういう人が動けない。これは本当に悔しい、悲しいことだと思います。このフォーラムのテーマから言えば、私は賢治さんも「チャレンジド」と呼んで良いのではないかと思います。賢治さんは、自分を障害者だと思ったことはないです。ないですけど、今、私はおそらく賢治さんという人は「チャレンジド」だったのではないかと、そう思うんです。
 ゲーテという人が、こういうことを言っています。「涙ながらにパンをかじり、冷たいベットの上で眠れられぬ夜を過ごしたことのないものは、人間の気高い心を理解することはできない」と。
 飛躍した言い方をすれば、そういう悲しみ、苦しみ、悔しさを味わった人が、いわゆる近代社会の理念を作り上げたんです。自由、平等、博愛という近代の市民社会の理想に向かって立ち上がった人、その人たちは涙ながらにパンをかじり、冷たいベットの上で眠られぬ夜を過ごした人たちなんです。だから、理想を実現するために命をかけて戦えたんです。闘って、自由と権利を獲得したんです。
 今、われわれが「市民社会」というときに使っている「市民」というのは、いったい何なのか。それは、そういう悲しさや悔しさを味わいながら、高い理想に向かって立ち上がった人たちのことではないか。私は、そう思います。
 「賢治さんはNPOの先駆者だ」という言い方をしましたけど、NPOはもともとそういうやむにやまれぬ思いから生まれた活動です。賢治さんは、そうしました。残念なことに、病に倒れ、活動は中断しましたが、その精神は今も生きています。そして、病床で書いたたくさんの作品は、日本人の心の財産です。「銀河鉄道の夜」も「クスコーブドリの伝記」も「風の又三郎」も「セロ弾きのゴーシュ」も、ぜんぶ病床で生まれ、今では私たちの人生を励ましています。
 ですから、こういうふうに言い換えたほうがいいでしょう。賢治さんは、チャレンジドであったからこそ、現代あるいは未来を照らす作品を生み出すことができた。人類共通の宝物、「心のユニバーサルデザイン」と言うべき作品を生み出すことができたのだと。
 そういうふうに考えて、イーハトーブ童話とか心象スケッチという賢治さんの作品をもう一度読んでいただければ、きっと素晴らしいアイディア、心励ますメッセージが、皆さんの心に届くのではないかと思います。
ちょうど時間となりましたので、終わらせていただきます。ありがとうございました。

竹中 どうも、牧野さん、ありがとうございました。宮沢賢治さん、私も大好きなんですけれども、研究書はかなり難解なものが多くて、そっちを読んでいるとしんどくなってしまいます。「うーん、これでは、宮沢賢治、好きでなくなっちゃうぞ」みたいなことも時々あったりしました。
 でも、今日の牧野さんのお話は、ご自分の人生とも引き合わされて、等身大の宮沢賢治という感じがいたしました。皆さんも、いっそう宮沢賢治に対する親しみが増したのではないかと思います。どうも、ありがとうございました。